「利害の無い人・利害の薄い人」とは

利害関係においては、どちらかがどちらを「利用」する。

特に「金を得る」ために。

金を得るために、利用したりされたり。

自分という人間の在り方、感情などどうでもよく、「能力」が買われ、そこに金が支払われる。

商売的に考えれば自然な事だが、それは「人間対人間」の関係ではない。

純然たる利害による関係とは、使用人と奴隷 のような関係だ。

中には金さえ払わずに利用しようとする者もいる。

もちろん それらは正常な人間関係では無い。

そんな環境に身を置き続けると、どこかおかしくなるのは当然の事。

彼らと付き合うだけでは、心が豊かになったり、明日を生きる不安が消え去る事など無い。無かった。

だから、利害の無い人間関係、そういう友達や付き合いを持つ事はとても大切な事。

更に、

大いに利害があるのに、それを全く意識する事なく付き合える人がいたとしたら、それは本当に価値のある、人生の財産とも言えるべき重要な人だろう。

それは、生きるという事の幸や安堵感を学び、与えていただける事に加え、明日の飯の世話までしてくださるような存在である。

そういう人と出会えた事には、深く感謝。

「こういう人と付き合えばいいんだ」
「自分もそうであればいいんだ」

という事を教えてくれます。

金を拝むくらいだったら、そういう人たちを拝んだ方がいい

と思うのです。

腹に来るほどヤバい事

強いストレス・大きな困苦。

それらを受ける事で、身体のどこかしらに症状が現れる。

自分の場合、腹が下る。

会社勤めしていた頃、よくあった。

独立してからも時々。

会社勤めによるストレスと、自分で全て責任を負うスタイルにおけるストレスは種類が異なる。自分の場合は異なった。

後者は、

「もう食えなくなるかも知れない」

といったもの。

明日を生きる事の不安、未来への不安。

「独立」とは聞こえがいいが、「保障」が一切無い。

いつでもどん底に落ちるリスクを抱えている。

そうならないように必死にもがく。

もがいてもどうにもならない時もある。あった。

もし、堕ちてしまったら。

自分が食えないだけでなく、家族が食えなくなり、親すら巻き込む事にすらなり兼ねない。

そんな事を時々考えて、腹を下していた。

でも それは昔の事。

いつからかそんな不安なイメージを抱く事は無くなり、むしろ「そんな風になる訳ないだろ」と確信めいた意志のようなものがある。

意志 と言っても 単なる思い込み かも知れないけど。

食えなくなる不安 を感じなくなったのは、たぶん、いろんな事に手を出して、いろんな人と出会ったから。

コンピュータ1本だけしか出来なかったら、そこ倒れればゼロになるけど、他の事がいくらかでも出来れば、ゼロにはならない。

「ゼロにならない」のは、「仕事」ではなく、「人との関わり」。

利害が無い、または利害が薄い、人との多様な関わりがあると、どこか安心する。

それさえあれば、どうにかこうにかなるだろう と。

だから、ストレスで腹が下ることはほとんど無くなりました。

ほんと 皆様のおかげ です。

ありがとう~

ございます

スイッチOn/Off

「パソコンのスイッチをオンにする時は自分のスイッチをオンにする時で、テレビのスイッチをオンにする時は自分のスイッチをオフにする時」

妙に納得。

家族ではない人と関わる時、スイッチはオンになっている。

いろいろ考えたり気を使ったり。

家に帰ってご飯を食べる頃、スイッチはオフになっている。

父親として家族と交わる時、脳みそはすっかり休んで、ぼんやりしている。

そんな訳だから、家の中の者にとっては

「家族は大事だと言ってる割には気を使わない。外の人間にばかり優しくしている」

そう思われて当然だし、そう思われる方が自然というもの。

「普通」って何だろう

「普通に生きる」

「普通に過ごす」

歳を経るほど、「普通」でいる事の難しさ、尊さ、素晴らしさを実感する。

「ただ普通の家庭で過ごせればそれでいい」

簡単な事の様に思えるがそうではない。

そもそも 普通 って何なのか。

親元で育てられた日々、環境の事なのか。

たいていの家庭、どこかしら問題がある。

たいていの人間、ひとつだけの家庭で育って大人になる。

その丁度の経験で、「これが普通であり、こうすれば普通になる」 などといった事、思いつくものでも実行できるものでもないだろう。

ほんのちょっとの楽しいこと と ほとんどの辛くて苦しくてつまらないこと

人生、そういうもの。

家庭 もそう。

悩んだり、考えたり、苦しんだり、楽しんだり。

どうも「安定したイメージの普通」とは異なる現実。

でも、実はそれが「普通」なんだろう。

それを、どう捉えるか で、人生すら決まる。 と思うよ

支え合う

人間、支え合って生きている。

どんな人間にも役割があり、

人間の組み合わせ 出会い は何らかの実を結ぶ。

ITが向いている方向もまた 人間 である。

携帯電話・スマホ・パソコンの向こう側にいる人間と仲良くしたい。

現代人、

届いたメール twitter – reply facebookコメント に一喜一憂する。

それは、ニュースよりずっと魅力的な、最高の「コンテンツ」である。

「キラーコンテンツが登場しない」

どこかの評論家言ってた戯言。

人間は、人間に興味がある。

だから、IT機器を使ってまで人間と触れ合おうとする。

「直接会って話せばいいじゃん」

それは野暮というもの。

時代は既に変わっている。

頑なに己を守ろうとしても時の流れは止まることが無い。

堤防のように振る舞っても、決壊する事は目に見えている。

「それ」は抗うべきものではない。

人間関係が多様化した現実を受け入れよう。

絶対 は 無い。

だから、

否定せず排斥せず支え合う。

各々が出来る範囲で。

前置が長くなりましたが、自分は野山のこと、全く知りません。

でも、野山に詳しい友人がいます。

彼は写真を撮りませんが、野山に足を運ぶことが好き。

だから、自分を野山に連れて行ってくれます。

ありがたいなー

って 思いながら、喧騒を離れ、野山の空気を吸い、自然を堪能します。ちょっとだけですが。

偉大で強大な自然。

何もわからない小さな自分。

でも、その中で生かされている。

生かされているのは自分だけではなく、小さな動植物も然り。

いのちを育むため、いのちをいただく事、多々。

弱肉強食 どちらが偉いとか強いとかそういう事じゃなくって、

今、生かされて、いい感じの時間を過ごせている事は素晴らしいな、と。

なんか そういう事。

そして、そういう季節になったので、どんどん野山に足を運んで、

写真なんかいっぱい撮ったりしたいな

と思った 春の日 なのでした。

味方

味方になる って 敵を作る って事。

不必要に敵を作るべきではないし、作りたくない。

だから、誰の味方にもならない。

それは、当たり前の事。

唯一、「味方」である事を意識するのは家族だけ。

そうでなかったら、身の振り方か人間関係、自分の性格、考え方、どこかおかしいと思う。

とは思っても、敵も味方もいる現実。

どこかおかしい のは自分自身。

でも、

まあ いっか

って思ってます。

いいよ 大丈夫 自分

ってね。