手を引く者 引かれる者

仏壇に手を合わせた時、また光志の姿が見えました。

一人ではなく、後ろに3人ほどの人を従えていましたが、彼らの顔は見えませんでした。

楽しそうな雰囲気、光志は笑っていました。

彼らは誰なんだろう とカードをめくると

そうですか。そういう方々ですか。

光志の手をしっかり引いてあげてくださいませ。

お世話になります。今後ともよろしくお願いいたします。

※カードの意味を解説すると、左から

XXI 世界:「神仏」そのものの存在

X 運命の輪:運命の好転。良い方向へ導く存在

XII 吊るされた男:神仏の導きにより正しい方向へ歩む修行を行うコーチのような存在。赤ちゃん故に神様が遣わしたのかも知れません

フルデッキからの3枚引きでこれ(全て大アルカナ:確率的にかなり低い)なので、かなり強いメッセージであると思われます

夢とは何だろう

「夢を叶える」

夢とは「届きそうで届かない目標」の一歩手前。

現実的に 努力すれば叶う目標。

光志がいなくなってから「夢」が大きく変わった気がします。

「もう一度、光志と暮らすことが出来る」

という夢。

もちろん、奥様はじめ子供たちと一緒に。

「それは この世では叶わない」

諦めるのは簡単ですが、「叶わない」とは思えないのです。

昨日

仏壇に向かい、手を合わせた時、光志の姿が見えた気がしました。

少し高い所に浮かんでこちらを見降ろしている姿。

何となく不満そうな顔。

何故そんな顔が見えたのかな と思っていた直後、買ってきたお菓子を食べようとしてた子供達。

「先に光志にあげろって」

そういう事 か って、笑いがこみ上げてきました。

魂 というものや、見えない世界 は間違いなく存在していて、縁ある者は 生死問わず、言葉とは異なる何らかの手段によって、心を通わせ合い 対話しているものだと思います。

見えた気がした光志の姿は、「金の手」と対話した感覚と同じものに感じました。

こちらの世界でも、「言葉とは異なる意思の伝達」が出来れば、見えないけど近くにいる光志との対話も出来る気がするのです。

抱きしめて、温もりを感じる事が出来なくても、魂が存在しているのであれば、対話さえ出来れば。

そう言えば 見えない者と対話する手段として「タロット」という業を得た事。

それもまた意味があり、必要だったから出会いがあり、得られたものである事は間違い無く。

光志と もう一歩進んだ対話が出来れば、この世界がまた少し違うものに感じられる気がします。

もちろん、良い方向に。

そうなる為には 何をすべきなのでしょうね。

 

死んだら終わりか

「人生は一度きり」「死んだら終わり」

本当にそうなのだろうか と、幼い頃から思っていました。

生まれる前はどうだったのだろう。

全く自分は存在していなかったのだろうか?

何十年か前に生を受けた今現在の人生。

「自分」が存在し、体験し、感じる事が出来るこの世界・宇宙は、今生きているこの時間・人生が全て

そう考える方が不自然であり、正しくないと思うのです。

「タンパク質やら水やらの塊として、この世に約100年近い時間存在できる。

臓器と呼ばれる箇所が機能を失えば、その存在は無かった事となる。

存在価値を失ったタンパク質と水の塊は、ごみと同じように土へ還る」

もし人生というものがそのような姿であれば、世界はどれだけ虚しいものか。

人生とは 風が吹く 水がこぼれる ような自然現象と同じ程度のものなのか。

否。

人は 世界の成り立ちや過去の姿、宇宙のあり方、家族の歴史に惹かれるもの。

それは、遥か昔から 自分 が存在している事の証拠だと思うのです。

過去の出来事に興味を引かれ、懐かしんだり感情が動かされたりするのは何故か。

亡き人を家族のように愛し、家族として接し、大切にするのは何故か。

この世での人生を終えたから 死んだから全て終わり ではありません。

魂を磨く事 魂の修練 は永遠に続いていて、これからも続くもの。

それは 光志が私どもに一番伝えたかった事 だと思うのです。

金の手との対話

金の手と対話した時、言葉で会話しているのではなく、心に浮かんだ言葉に対して、耳で聞こえる声とは違う声が答えてくれる感じでした。

気付いたのですが、それって、仏壇に手を合わせて光志に語りかける感じと同じです。

語りかけた結果、返答があるようなそんな感覚。

気付いたのでメモ。

金の手の話 続き

光志の「志」は、天使の「使」だったね、と思っていましたが、そうではない事に気付いてしまいました。

光志の「志」は、数字の「四」でした。

「金の手は家の東西南北にある」

光が四つ。

そういう意味だったのか、と。

光太 とかにすれば良かったのにー。。。

この世は天国ではなく

生活に余裕が出来、家をリフォームして住みやすくし、愛する家族と良い友達に囲まれ、仕事も順調。

そんな中、光志を授かりました。

可愛い赤ん坊を抱き、家族みんなで可愛がり、写真をたくさん撮り、それはもう理想郷であり天国そのものでした。

しかし、この世はこの世であり、天国ではありません。

突然あの世へ帰ってしまった光志。

天国から地獄へ落とされたのかと思ったのですが、そうではないですね。

少しの間、我が家に天使が舞い降り、天国の有り様を見せてくれたのでしょう。

「もうこれ以上の幸せは望まない。もう十分」

そう思ったのは間違いでした。

ここは この世 であり、修行の場 ですね。

苦は乗り越えるもの。

悲痛な心ではなく、穏やかな心で人と接し、家族・友達を愛する事。

与えられた力、手に入れた力は使うもの。

これでよいと満足せず磨き続けるもの。

人生の終焉を迎え、愛しい我が子と再開する時、胸を張っていられるか。

「次に生まれ出る時はこういう風でありなさい」

と堂々と言えるか。

今でも時々、

夢から覚めないかな

時間が戻ればな

と思ってしまいますが、死に様を見据えて生きている ここ は 天国でも地獄でもなく この世 なのですね。

 

家族が家族に望むこと

この世に生があっても、無くなっても、家族が家族に望む事は「幸せな姿」であり、決して「悲しい姿」では無いはず。

あの世から たぶん近くからこちらを見ている光志も当然、私はじめ奥様、子供たちの笑顔を望んでいる訳で、泣き顔を見たい訳では無いでしょう。

時折、悲しい気持ちややり切れない気持ちに満たされて苦しくなりますが

少しずつ乗り越えて、明るい家庭を取り戻さなければ。

私どもが悲しんでいれば 光志も浮かばれない訳です。

嘘でもいいから 作り笑顔でもいいから なるべく楽しい気持ちで家族と 光志と 接して行こう

と思いました。