タカが100秒されど100秒

水泳を始めてから、かれこれ5年以上の月日が経っていました。

ここ1・2年、市内のフィットネスクラブの倒産が相次ぎ、そちらのクラブの方がうちの教室に続々参加して来ています。私と一緒に泳ぐクラスは元から一緒だった方が極めて少なくなってしまいまして、しかも外から来られた方々のレベルの高いこと。

水泳教室では、相変わらず一番先頭で泳いでいますが、私より10歳くらい若くて速い方がいたり、後輩でも100mメドレーの(私の)ベストタイムを超した方も出てきたり、腕力が凄まじいメンバーが急成長を遂げてきたりと、なかなか強烈なプレッシャー。

もうこの辺で「先頭」は降りて、まったり泳ぐ人でいいかな なんて思い始めてました。

年に3回の水泳教室、最終日は100m個人メドレーのタイム取りです。最近の教室、最終日に参加できず、しばらくタイムを取っていませんでしたが、100秒を切った事がありませんでした。

先に書いた方々は既に100秒を切っていたので、今回のタイム取りは自分にとって「世代交代」的な会になるのかな と思ってました。

タイムが一番いい2名が先に泳ぎ、私は馬力が凄まじい方(前回のタイム、私のベストとほぼ同じ)と泳ぎました。自分の持ち味は最初の25m、バタフライ。最後にバテても、ここで稼がなければ良いタイムが出ません。

なので、予定通り最初から全開。一緒に泳いだ方もバタフライが速い事を知っていたので、ペースもへったくれも無くひたすら速くブッチぎり、練習で少しイイカンジになったバック・平を経、追いつかれないままゴール。

90秒台前半とは行きませんでしたが、96秒。初めて100秒を切り、クラスの中でも2番目。ほっ。

一度、壁を超えてしまえば、次の壁が見えてきます。90秒台前半、95秒切り という「目標」が久々に出来ました。

「敵」は、後から入ってきた別クラブ云々とか誰でもなく、自分自身。

一緒に泳いだ人に勝った のではなく、自分のベストを超えただけ。

と 冷静に考えつつ、所詮、自分は「普通の人間の男子」。
勝ったり超えたりすれば嬉しいしヤル気も倍増。まだまだイクぜ どこまでも~

先日、水泳の師匠とお会いして、そういう(教室は新しい人ばかりになった)話をしたら、

「刺激になってイイね」

と言われ、

「そうですね!」

と心から言えました。

弊社HPをリニューアル!

google mapやプレイスで、「有限会社ちよやシステムサービス」が、普通に表示されてしまうと気付いたのですが、HPほとんどほったらかし。

これはヤバい と、本日急遽リニューアルしました。

会社のHP って「らしく」ない気がしたので、こういう作りにしました。

http://www.chsing.net

シンプルかつ「らしい」かな。

さようなら という言葉

さよならは別れの言葉じゃなくて~

なんて歌、よくあります。

最近、とあるバンド曲練習した際にそのキーワードが引っかかり、誰かに さようなら と告げるとしたら、「ありがとう」や「元気でね」や「幸せでありますように」といった想いを乗せて告げたいよね なんて思ったのですが、ふと「ALOHA」という言葉を思い出しまして。

けっこう昔、一度だけハワイへ行きました。

ガイドさんが、ALOHAという言葉は、「こんにちは」といった挨拶だけでなく、「I Love You」という意味、「ありがとう」といった意味、また「さようなら」といった意味もある と教えてくれました。

なんでそんなに何でもかんでもなのかしら? とよく理解出来ませんでしたが、そういう事。

言葉は、感謝や幸福を願う気持ち、相手を敬う気持ちをが伴っているかどうかを「基準」として選び、使うべきもの。

口は災いの元。相手を傷つけるような言葉を発すると、言葉をかけた相手よりも、自らを傷つけ汚し、少なからず「不幸」という方向へ向かう事となります。

そう考えれば、挨拶に限らず何でもそう。

感謝や愛情に基づいた言動・行動は、自らも相手をも幸福な方向へ導きますが、相手を意のままにしたい・自尊心を満足させたい・人より優位に立ちたい、といった自分本位な欲求やエゴに基づいた言動や行動が持つ「毒性」は、自らを犯し、支配し、自由を奪うもの。

だから、何でも「ALOHA」なんだなー って、つい最近気付きました。

さようなら も ありがとう と同じ気持ちで。

ありがとう も 愛してます と同じ気持ちで。

退院祝いに

親父、去年、胃癌を患った。
運良く早期発見出来たため、内視鏡手術で患部を剥離させるだけで済み、手術も無事成功、経過も良好だった。

良くなったら、はた善 に行こう!

って約束してたけど、当然しばらく酒は控えなければならなかったり、そもそも糖尿も患っている事から、タイミングを掴めずにいた。

けど、つい先日、一緒にはた善さんへ行く事が出来た。
親父には初めての店。大変喜んでくれた。

遅くなったけど1年越しの退院祝い。楽しく飲み食いが出来て良かった。

親父、67歳。
医者からは、あと3年生きる事が出来る と言われてる。

あと何回一緒に行けるかな。

でも、この位の歳まで生きていてくれたから、あと3年ならそれでいいと思う。

荒んでいた若い頃の暮らしぶりとは全然違い、今は安定した生活が送れて、それなりに家族と仲良く過ごすことが出来ていると思う。

きっと今は幸せだろう。

人生の終わり際、こういう形の幸せの中にいられる事は素晴らしい事だと思う。

逝くなら、こういう幸せの中で逝ってほしいと思うし、自分もそうでありたい。

人生の全てではなくて、一部の事だけど、死に様は生き様そのものでもある。
まだ死んだ訳でないけど、初めて、「親父のようになりたいな」 って思えた。

ネットと友達と処方箋

基本、会った事が無い人は「友達」ではありません。

ネットでメールやチャット、ブログコメントによる「会話」があったから、彼は彼女は友達なんだ と思うのは自由ですが間違いです。

テキストの中に自分を隠す事が出来るネットの世界。隠したくなくても感情的なやり取りがタブーとされるネットの世界。そんな世界のやり取りだけで、理解し合う事などできる訳も無く。

もちろん例外もありますし、ネットでのやり取りがきっかけになって実際の「友達」になる事もあるでしょう。

が、ほとんど上手く築ける事の無いネットだけの「人間関係」らしきものに深く依存してしまうのは、人として正常な行為ではありません。

その辺、「そりゃそうだ」と思えれば正常でしょうが、「なんでさ」と思うようであればどこかしら問題があるでしょう。

関わるべき身の回りの人や本当の友達を差し置いて、パソコンやケータイの向こう側のbotだか何だか解らない存在を「友達」と認識する事ってどれだけ狂ってて寂しい事か。

マイミクは、mixiシステムで「マイミク」として登録されたアカウントであって友達では無く、フォローし合った関係もTwitterシステム上で「相互フォロー」状態となったアカウントであり、やっぱり友達ではありません。

mixiやTwitterといったソーシャルの世界では、そういった「アカウント」が多数存在し、(会った事もない存在から)時に「ぼくら友達だよねー」といった気色悪い思いを投げかけられたり、そういう想いを感じたりする事が多々ありますが、彼らは「友達」ではなく、そもそも「人」かどうかも解らない、単なる「アカウント」なんだ と思っておいた方が良いと思います。

そして、そういう「問題のあるアカウント」への処方箋は「関わらない」事。肯定も否定もしない事。自分本位な「彼ら」は、「誰でもいいから構って欲しい」だけです。「求めるべきものはここじゃなくて現実世界にあるんだよ」と伝えるためにも、構わない事が一番です。

以上、これからTwitterとかを利用される方へ