仕事は「追う」もの

忙しくなると「仕事に追われている」と思ったり言ったりするもの。

そういう仕事ってどうなんだろう と思った。

「自分の意志で選んで」今の仕事をしている、即ち「仕事を追って」今の自分があるはずなのに、時に「自分の意志ではなく人の意志で」今の仕事を「させられ」、仕事に「追われて」いる、という感覚に陥る事がある。

「負いたくもない責任を負った ・ 理不尽を突き付けられた」

そうだとしても、それを「自分の仕事」として受け入れたのは自分自身。拒否や無視という選択肢があったにも関わらず。

所詮、自分も普通の人間。そんな時もあります。

そんな時は、今一度、「今、自分がしている事は、自らが選んでやっている事だ」という事を思い起こし、具体的なゴール・目標を掲げてそこへ向かう時。

「仕事を追う」自分を取り戻す時。

仕事を追う とは、夢を追う のとほとんど同じ。
「夢に追われる」って絶対オカシイじゃん。

そんな気持ちを分かち合える仲間と一杯ヤッたら、次へ進む。

共通仕様と独自仕様

HP・webシステムを合理的に効率よく運営するために、「共通仕様」となる様、心掛けて設計・開発してきました。システムを作る人・プログラマー的な「重複を取り除く」事による合理化の事です。

共通仕様化はシステムのみならず、HPのレイアウトやCSSに到るまで適用しようとしてきました。

が、共通仕様化する事で合理化されないケースも多々。

特に、ひとつだけのCSSで複数ページを書く って行為。

「CSSの一部を修正するだけで、全てのページが変更される」事を合理的だと思っていましたが、実際、修正を加えた後、影響の出るページ毎のレイアウト確認や調整が必要となります。

また、コンテンツのライフサイクルが短くなった現在では、「長期に渡る合理化の為に費やす時間と費用」は無駄に終わる事が多くなり、それ以前に時間や費用といったリソースを捻出できない場合がほとんどです。

ページに盛り込むシステム的なものも然り。共通仕様に拘って時間をかけて作っても、元を取れずに無駄打ちとなる場合もあります。

よって、「将来に渡るメンテナンス効率の良さ」よりも「効率よく一から作る」「効率よく一部を直せる」ような事、具体的には共通仕様という幹に独自仕様という枝葉が付くような、そんな「作り方」がイイな と。

昨年後半頃からそんな事を思い、試してきた事がようやく形になってきました。

すんごく前に目指した事、Rapid Application Development に加える Rapid Design、更には Rapid Maintenance。

会社を大きくするのではなく作業の効率を上げる事によって、より多くの仕事に対応しようとするのは、自分がSEだから。

一人の限界? そんな事考える奴は勝手に己の限界を作っていればいい。

仕事的なITに対する自分の根っこはそういうとこ。

今日のお花

「ネオクラシック」

形に対する自分のイメージは「すらっとしたオーバル」。

密度感が出るように、厚みが出るように と意識し過ぎるとバランスが悪くなり、バランスを考えるとスカスカになり、なかなか苦戦。

まあまあの出来 でした。

STEPWGN

給油中のSTEPWGNにて。

燃費が悪く、使用頻度が低くなった為、手放そうかと思っていましたが、今の冬は雪が多く、FITでは心もとないのでSTEPWGNが活躍しております。

少々無駄に維持費を払い続けてでも、長く付き合う事になる かもね。

今日のお花

今日は「不等辺三角形」。

出来上がりの立体イメージを捉えるのが難しかったですが、何とかかんとか。

サイネリアがイイなー と、二色使っちゃいました。

振り返りそして

ふと ここ5年ほどを振り返っていました。

今と全然違うのは関わっている人の数と多様性。当時はそれこそ「仕事以外何も無い」状態でした。

「ひとつの事をやり続ける」のは良い事だと信じて永らくSEという仕事を続けてきた訳ですが、「仕事だけしかしていないと、関わる人・関わる世界は狭い」事に何となく気付いていた頃。

心の深い部分でそういう気付きがあると、自然と行動に出るもの。仕事ではない世界や人と関わり、「初めての体験」がたくさんありました。

利害関係の無い人間関係の素晴らしさを楽しむ反面、仕事の人付き合いを良い事だと思えなくなった事もありましたが、今思えば「仕事だからと線を引き、良好ではない関係を作っていた」のは己の未熟さ故。

嫌だなー と思う相手ってそういうタイプ。自分もそういう接し方をしていれば 嫌だなー と思われて当然です。

そんな5年間を経、IT的な仕事中心に回帰していました。キッカケはスマートフォンとtwitter。

ITというムーブメントの新しい転換期。「パソコン」「携帯」という枠を超えた情報技術のあり方、真の21世紀のハードウェア・ソフトウェアといった辺りは、某M社の絶対的影響力が及ばなくなった、自由で輝かしい「未来の情報化社会」の姿が見え隠れしています。

さて 何を作ろうか 何をしようか と思った時の引き出しや関わる事の出来る世界、現実的に可能な事が5年前と今とでは全く違う と。

材料は揃った って事。

何を調理するのかが試される2011

排雪

昨日、雪かきを終え、家の近くの川にふらっと行ったらダンプやトラックが次々と雪を川へぼちゃぼちゃと。

雪、多いですが、実は撮るものもいっぱいある って事。不必要に辟易して気付かないだけ。

だからなるべくカメラ携帯ではい。

案ずるよりも

もし失敗したらこうしよう、そうでなかったらこうして、こう来たらこう行こう。そこでこうだったら・・・

と考えるほど、失敗した時のイメージが膨らみ、一歩が踏み出せなくなります。

経験上、そういう類の物事は、「どうにでもなれっ!」と目を閉じたままでも正面突破を試みた方がいい 場合がほとんどだった気がします。

本当の失敗は「油断している時」に訪れるもの。

動けないほどの「恐怖の失敗イメージ」を抱いている時は、油断できる程の余裕はありません。だから、想像するイメージほど悪くなる事など無く。

思い切ってやってみると、意外なほどあっさり済むもの。

「出来る出来ない」は、やらない理由。

何もしないために生を受けているのではなく、生を受けているのは何かをするため。

生きる は やる と同じ。

とうとうiPadを・・・

いえ 買ってません。都合によりお借りいたしまして。

なるほどAndroidのそれとは作りの方向性が異なるようです。

操作感、いわゆる「ヌルヌル感」はAndroidよりずっと上。HPや写真をプレゼンするような用途には最高かも知れません。特にピンチズームとスクロールの滑らかさが素晴らしい! 今日、Xperiaでピンチズームが出来るようになるアップデートが提供される予定で、楽しみにしていましたが、コレを知ってしまえば、「んー ヌルヌルしないー」と不満に思ってしまう かも。

が、「この作業はこのアプリを使ってこういう風にやる」って事が決まっている感が強く、悪く言えば自由度が低い、良く言えばわかりやすいな と。

自分が使うのであればAndroidがイイ、と思いましたが、人に進めるのであればコッチだな と。まだ触ったばかりでよく解ってませんがそんなトコで。